昭和39年12月21日 朝の御理解
「健全な心に、健全な肉体が、宿る」と、健康が頂けると、言う様な事を申します、健全な心に、健全な健康が約束されると、宿るのであると、というように私は、健全な信心、ねいわゆる健康な信心、健康的な信心その健康的な信心に、本当の健全なおかげが宿ると、私はそういう風に思うですね、足ろうたおかげが宿ると私は思うです、健全なだから信心をしなければいけません、ね。
私は肉体の健全を頂くために、先ず熟睡熟睡が必要であると、同時に一生懸命の働きそしてそれには、適当、休憩というか一服というものが必要であると、働き続けてはでけんでそこには、間いま間いまに一つの一服がいると、憩いがいるのであると、先ずいるのは熟睡であるとようにです、信心にもやはりそれが言える、健全な信心をさせて頂くために信心で言う熟睡信心で言う、憩い一服というのが必要である。
どう言う様な事を熟睡と言い、一服と言うのだろうかと、どうでも健全な信心をするためには、ここんところの、おかげを頂かなければならないということ。昨日は、文字通り一時終日、椛目のお広前にぎや、お参りにぎやっていました、朝の5時から今朝の5時まで24時間もうぶっ通しでした、もうぬれずまくなしの御用させて頂いたんです。昨日日曜日でもございましたしですね。
で昨日はあの御祈念の後にすぐ、上熊本から久しぶりに参ってみえられた、これは伊万里から今度は二人二組参られた、福岡からめずらしい方達が参って来た、もうそのそちらの方で一グループ、信心話を一生懸命してるんですね、そしてまたここのストーブの前の周囲でまた一グループが一生懸命信心の共例をやってるんですね、そん時私ここで「呉越同舟」ということを頂いた。
もう日曜ですからもう、もうそのきりがないんですお参りがで、皆さんそこにおる参ってきておられる、そこに参かたってから、共例を一生懸命やって話を聞いているわけなんですね。「呉越同舟」ということは、まあ敵と味方が一つの船に乗って行くと言った様な意味なんですね。なるほど、熊本関係があるかと思えば佐賀関係がある、福岡教会関係があるかと思うと。
甘木関係がある、純粋な椛目の人達がおる、久留米関係がおるというように、もうその以前は「あの人は甘木出」とか、「あの人は久留米出」とか、「あの人は、佐賀熊本あたりはいわゆるこの、やぁあのさっ佐賀、八幡ですかねあっちの方からのですから、もう全然その違うんですよ、いわば縄張りが、それぞれにあるんですよ、その縄張りを乗り越えてですたい、皆さんが椛目に集うて一生懸命信心の共励をしておる。
どういうことを、共励しておるか。私はあのう、丁度昨日は、教学研究会でもがざいましたからね、朝から皆さんがみえとりました、皆さんがここでその、か、もう教学研究より結局、午後からになりましてから、午後の五時まで、ぶっ通しに研究会をっもう、信心の共励をなさった、で、その方達もここに、一緒にそのグループに入ってから、一緒にお話をしてるんです。
中にあのう、久留米の石井喜代司さんが、こういうことを言ってるんですね、またそういうことを、共励してるんですね、もう名言です、私こっから聞かせて頂いてから、素晴らしいなぁと思うたんです、「神様の心は分かるけれども、人間の心は分からん」っち言うてから言ってるんです。皆さん、お分かりになられるでしょうか意味が、神様の心は分かるけれども。
神様の思い、心というのはどこまで深いやら分からん、と言われておるの、「神様の心は分かるけれども、人間の心は分からん」と言うて、私それを聞かせて頂いて「素晴らしい」と思うた、椛目の人達なら分からなきゃならん、ね、人間の心は分からん、口で言うとるが腹は違う、他に示しておるから、そうかと思えばそうではないと言う場合もあると、人間の心は分からんのだけれども、神様の心は分かるという。
私は椛目で信心さして貰うならここんところば分からにゃぁいけんと思う、皆一生懸命あっちでも共励し、こちらでも共励さして頂いておることの、結論はここに到達する、ことを共励しておる訳なんです。皆さんお分かりになるでしょうか、神様の心は分かる、人間の心は分からん、肉親である親でも子でもですさぁ子供の思いは本当には分からん、親の思いも分からん、それが言わば本当な事なんです、それが真相である、ね。
同人とも神様の思いは分かるという事、どのような場合でもどんな事柄の中にでもです、神様の思いというのは、神愛一路に尽きるからなんです。そうでしょうがこう言う様な場合どういう信心さしてもろうたらいいだろうかと、例えばそう言う様な話が出ましてもです、神様の思いが分からして頂きゃあ有り難いのである、神様の思いが分かるということ、神様の思いがどういうことかと言うと、どのような場合でも。
あるものは神愛のみであるということ、ここんところを、喜代司さんはそういうような言葉で言ってるわけなんですね、神様の思いは分かるけれども、人間の思いは分からん、だから本当に神様の思いが分からして頂いたら、私は難儀は難儀ではなくなってくるということなんです。そうでしょうが。ね。甘木もなからなければ久留米もない、熊本もなからなければ佐賀もない。
純粋の椛目、もなからなければもう皆が、教祖生神金光大神のお手続きを持って、信心の稽古をさせて頂いておる同士の集い、そこで集うて一緒に、そして私がここで頂きます事なんです、「あれが信心の一服じゃ」とこう頂きました。あの信心で一服しちゃならんって言うあれとは違うですね、今日私が言う、健全な信心を頂くためにには、どぉでも一服がいるのです。
一生懸命の例えば、お仕事の合間にゃあ、どうでも一つの憩い一服がいるようにです、信心にも必要なのだと、一生懸命信心の共励をしておるということは、ね、例えばおおい同士が集まってです、おおじ久留米派もなからなければ甘木派もない、ただ教祖生神金光大神が教えられたその道というものを、探求し追求しておる言わば、好きな者同士が好きな話をしおうておるというのですから、これが一服であるということ。
信心の共励会は、共励しておるのはですね、ありゃあ信心の一服にあたるのです、朝の御祈念に皆さんがお参りになる、火鉢をかこみ、ストーブを囲んでから、例え10分でも20分でもです、自分の、程度の揃うた、あの者同士がです、信心の共励をするなら、これは信心の一服なのっ、必ず健全を約束されるです。ね。文字通り、昨日の五時から今朝の五時までです。
それでその、昨日は菊栄会でございましょ夜は、ですからあのう、共励会を終わりましたのも十二時だったでしょ、だから、私と久富さんがそれで待っとりました、それからまた信心話なんです、とうとう今朝の五時、こうして朝の御祈念まで二時か三時ごろ、「ならこれで一切りつけようか」っと言うて、久保山先生が先生が「もう十五分間」と(笑い)、それから十五分間とうとう、言わば御祈念の時間になってしもうた。
それで皆がもう眠いという顔もしてない、ね、疲れたという顔もしてない、自分の好きな者同士が、ね、同じ例えて言うならば、趣味道楽の人がです、ね、その趣味の話をし、しておる様にです、信心の愛好者(笑い)と言うたらおかしいですけども、まあ信心の愛好者がです、信心話をです、ああでもないこうでもなかろうかというて、話し合い、練りあってるのですから。
もう本当に五時間なら五時間、いつの間にか経ってしまっておるということである、なるほど信心の、これが一服だなぁということです。ね。そういう意味で、私信心の共励というのは、あ、なさらなければ、それが、い、もうその時だけは、本当に一服しておるようなもんです、自分の心がやすらぎよる、好きな話をし、好きな者同士が、話し合っておるというのですから、そうでしょうが。そんなら信心の熟睡とはどう言う様な事を持って熟睡というだろうかと、ね、熟睡が必要である、不眠症になる、ね、
二日、三日なら良いけれども、さぁそれが十日、十五日とこう続くと、ね、ノイローゼな様になってしまう、熟睡ほど有り難いものはないようにです、信心も同じこと信心も、私はその信心の熟睡というのがいる、それはどういうことかというとぼつが身がで皆さんが。朝の御祈念なら御祈念に、一時間なら一時間一生懸命われを忘れて御祈念をしておる時にはあれは、信心に熟睡しておる時です。
他の事は考えよらんでしょうが、神様とお互いに交流して。「有り難いなぁ」っという境地に浸っておられるひと時でしょうが、あれは信心の熟睡なんです。というにこの方の行は家業の行、火や水の行ではない家業の行と仰るからです。自分の頂いておる職業に対して、われを忘れて一生懸命に働いておる時が信心の熟睡です、信心もその中にはあるのです、ね、信心即生活と、ね、
一生懸命に自分の御用を、信心で成させて頂いておる時に、信心の熟睡の状態の時であると、ね、そういう一生懸命の合間にもです、やっぱり一服がいると、その一服は家族中でもよいじゃないですか、友達同士でもよいじゃないですか。信心の共励を一生懸命しとるという、それが信心の一服だということ。ね。そこに私は、健全な信心、そこに本当な、ね、健康的な、おかげが宿るのであり、約束されるのであると、私は思うのです。
おかげ頂きましょう。